子供の頃から、疑問に思っていました。
「異なる地域、国では、それぞれの価値観をもって、それぞれのライフスタイルを持って、異なる法律と文化の中で生き、結局最後は同じように死ぬ。それならば、どんな生き方をしていても、多種多様な生き方のたった一種でしかないのでは?」
この意味は、要するに、仮に70歳か80歳で寿命が尽きるにしても、それまで受ける教育の種類、習慣、法律ですら、「こうでなければいけない」という考え方は間違っているのではないか、ということ。
もっと平たく言えば、「全ては選択している、あるいはさせられているだけであって、物事の本質ではないのではないか」という疑問です。
例えば、この大学に行ったから、必ずしもこうなる、というものはありません。
こんな趣味を持ったから、必ずしもこうなる、ということでもありません。
この国に生まれたから、必ずしも恵まれている、ということでもありません。
人間の本質と社会のルールとは、互いに密接に関係しているものの、実は絶対に交わらず、あくまでも同じ世界を共有しているだけなのだと。
例えば、「赤信号で止まらなければいけない」というのは、相対的な社会ルールであって、車がなければ不要かもしれないし、実際には「赤」である必然性もありません。
「事故や怪我を生じさせない」というのが目的であり、本質論です。
人間が命を持っている以上、その命は尊重され、守られるべきであり、どの人の命もそのように扱われるべきであるという本質があるから、他人の命を軽んじないように、その生き方や暮らし方、人生を侵害しないように作られたのが社会ルールで、その社会ルールの上に生み出された価値観が、今の私たちを取り囲む環境です。
ところが多くの人は、本質論が目的であることを忘れ、社会の価値観が生きる目的、また自分の人生観になってしまっています。
昭和の価値観は「良い大学に入って良い会社に入ってマイホームを建てて」というのが自分の人生観となり、生きる目的になっていたように思います。
平成になって「ゆとり」と言い始めた頃から、その価値観は変わってきました。
とはいえ、何れにしても周辺社会の価値観が、多くの人の人生観になってしまっている傾向は変わっていないように思います。
何が「個性」であるか、何が「アイデンティティ」であるか、何が「自分の人生を生きる」ということなのか、わからないまま、試行錯誤を繰り返すのです。
往々にして、「人はいつか死ぬ」という事実を忘れがちです。
「一度きりの人生なのだから納得のいく生き方をしたい」という人ですら、本質を忘れがちです。
そんなことを日々考えながら、いろいろなお仕事をいただいて活動しております。
令和元年11月1日 管理人NAO